PROFILE

宮 澤 崇 史
Miyazawa Takashi

 

元自転車プロロードレーサー
BIRTHDATE       FEBRUARY 27, 1978
HOMETOWN   NAGANO
LANGUAGE       JAPANESE, ENGLISH, ITALIAN, FRENCH, THAI

高校卒業後に渡欧、イタリアのチームに所属しロードレーサーとしての経験を積む。23歳の時に母の命を救うため自らの肝臓の一部を生体移植で提供、体力低下のため成績振るわず戦力外通告によりチーム解雇される。その後単身でフランスに渡り、アマチュアチームから再び経験を積み上げ、オリンピック出場や日本チャンピオン、アジアチャンピオンなど実績を重ね、34歳の時に世界で最もカテゴリの高いプロチームに所属。在籍中にリーダージャージ(個人総合時間賞)・ポイントジャージ(スプリントポイント賞)に日本人選手として唯一袖を通した。18年間の海外レース活動を経て、2014年に引退。
現在「リオモ・ベルマーレ・レーシングチーム」監督。LEOMO.incウェアラブル端末のアドバイザー。個人では、パーソナルトレーナー、講演会、全国各地でサイクリングイベントを行っている。

現在の活動

セミナー・講演

経験に基づく講演
18年間のヨーロッパでの選手生活、生体肝移植からの復帰、オリンピック出場、ヨーロッパのレース

専門的講座
ライド講座・スクール開催・スポーツ選手の食講座・健康ダイエット講座
身体メンテナンス・セルフマッサージ・トレーニング理論・体幹トレーニング

イベント・メディア出演

各メディア、各種イベント(ショップ・メーカー含)、出演、地域貢献事業などのお手伝いをします。

アドバイザリー業務受嘱

選手経験に基づき、各種メーカー商品開発・PRをお手伝いします。

 マネージメント業務

選手育成、レ-シングアドバイザー・コーチング・イベント等への選手派遣業務。

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経歴

1996 長野工業高校卒
1996 アコム ラバネロ
1997 イタリア:FOR 3
1998 イタリア:MOBILILISONE MAPEI
2001 日本鋪道レーシングチーム
2002 フランス:VC BEAUVAIS
2003 フランス:ブリヂストンアンカー
2004 個人でフランスにて活動
2005 フランス:ブリヂストンアンカー
2006 Team Vang
2007 NIPPOコーポレーション 梅丹本舗 E'quipe Asada
2008 梅丹本舗 GDR E'quipe Asada
2009 梅丹本舗 GDR E'quipe Asada
2010 Team NIPPO
2011 Farnese Vini - Neri Sottori(ファルネーゼヴィーニ・ネーリソットーリ)
2012 Team Saxo Bank(チームサクソバンク)
2013 Team Saxo-Tinkoff(チームサクソ・ティンコフ)
2014 Team Vini Fantini - NIPPO - De Rosa

 主な戦歴

2006~07 ツールドおきなわ 大会史上初の2年連続優勝

2007 アジア選手権優勝 アジアチャンピオン

2008 北京オリンピック出場

2008~09 ツールド北海道大会 史上初2年連続総合優勝

2010 全日本選手権大会優勝 全日本チャンピオン

2010 アジア競技大会出場(アジアオリンピック)銀メダル

優勝回数

19回

日本代表選出

世界選手権 5回

オリンピック 1回

アジアオリンピック 2回

All results

HISTORY

“マイヨ・ジョーヌ”はその少年の目にどう映ったのだろうか。中学生の頃、テレビで『ツール・ド・フランス』を観て「すっげ~!かっこいい!」と思ったという宮澤崇史。彼が6歳の時に父が他界し、女手ひとつで宮澤を育てていた母は、その淡い夢をかなえるべく自転車を借りてきてくれたという。遥かなるシャンゼリゼへの一歩を、少年はこの時踏み出したのだ。そして彼は知る由もなかっただろうが、その道は『ツール・ド・フランス』のコースのように厳しいものでもあったのだ。

高校に進学し本格的に競技を始めた宮澤は17歳でシクロクロス世界選手権に出場(22位)。卒業後は自転車競技が盛んなイタリアの『FOR3』、『MOBILILISONEMAPEI』に所属し経験を積む。18歳でワールドカップ・チューリッヒ選手権15位、19歳でツール・ド・おきなわ市民 200キロレースで優勝。20歳の時には全日本実業団いわき大会優勝。全日本選手権[U-23]4位、世界選手権日本代表などプロ選手になる為の実績を重ねはじめた。

しかし21歳の時、肝臓を患いながら経済的にも精神的にも競技生活を支えてくれていた母の病状が、肝移植が必要なまでに悪化してしまう。母は「自転車が続けられなくなったら‥」と案じた。そして医師からも「プロとしての競技続行の保証はできない」と告げられるが、宮澤はためらうことなく肝臓の約半分を提供した。アスリートとして健康な身体にメスを入れることへの不安よりも、母への感謝の想いが強かったのだ。後のインタヴューでも「当然のことです」とさらりと語っている。しかし、術後3、4ヶ月は安静状態。体力も感覚もなかなか戻らず、リハビリにたいへんな努力を要したことは想像に難くない。

回復後、フランスの『VC・BEAUVAIS』を経て『ブリヂストンアンカー』に加入。しかし手術のハンディもあり成績はふるわず、2年後、戦力外通告を受け解雇となる。そもそも加入時から「現状では採用は難しい」と何度も断られたのを「どうしてもヨーロッパで走りたい」と懇願し続けた宮澤。「自分は他の選手とは違う、絶対に強くなる選手です」という手紙を浅田顥監督に送リ、ようやく採用されたという経緯があったのである。浅田監督の「ヨーロッパで結果を出して来い」という言葉に奮起し、26歳、再びアマチュア選手としてフランスで単独活動する。エリート3クラスのレースで勝利。国内でも国民体育大会で優勝し、翌年『ブリヂストンアンカー』に復帰。その後も数々の実績を重ねて行く。

 

29歳、『ツール・ド・フランス』の常連チームも参加するスペインの1カテゴリーレースシルクイト・デ・ゲッチョで2位という結果を出し、世界で戦える日本人のパイオニアへと成長。国内最高峰レースであるツアー・オブ・ジャパンの第1ステージで日本人初の優勝、アジア選手権でも優勝しアジアチャンピオンに輝く。またツール・ド・おきなわでも大会史上初となる2連覇を達成するなど、日本を代表する選手へと階段を上りつめて行く。

そんな宮澤を海外のチームは見逃さなかった。2009年、イタリア(サンマリノ籍)のプロコンチネンタルチーム『AMICACHIPS-KNAUF』への移籍を決める。しかし、この移籍先でトラブルに見舞われる。契約の不備や給料の未払い、挙句はチームが活動を停止するという事態でレースをまったく走ることができなかったのだ。“イタリア”という国へのこだわりを移籍時のプレスリリースで「初めてロードレースを学んだイタリアのプロチームからのオファーは、プロとして常に上を目指していたいという自分の願いにかなうものです。実力ある選手が揃い、ジロ・デ・イタリア出場の可能性もあるチームで、チームメイトに認められる走りをし、結果を出すためにも挑戦していきます」と述べていた宮澤にとって、競技以前の問題で走れない状況は忸怩たる思いだったろう。そんな逆境の中でも懸命に努力を重ね、全日本選手権で2位。ツール・ド・北海道では個人総合優勝。これは大会初の2連覇達成という快挙でもあった。

2010年は『チームNIPPO』に移籍し、その走りに更なる磨きがかかる。ツール・ド・台湾でのステージ優勝を皮切りに、アジア選手権では2位、そして6月の全日本選手権では悲願の優勝を飾り、全日本チャンピオンに輝く。 その後は全日本チャンピオンジャージに身を纏い、ブエルタ・ア・レオン(スペイン)でステージ優勝し熊本国際ロードでも優勝。そして、アジア競技大会男子ロードレースでは日本代表として参戦し、銀メダルを獲得する。 名実ともに日本のトップロードレーサーとなった宮澤は、2011年からイタリアのプロコンチネンタルチーム『ファルネーゼヴィニ・ネーリ・Mチポッリーニ』に移籍。 再び勝負の舞台をヨーロッパに移すことになった。

全日本選手権のあと宮澤は「自転車選手として走ってきた中で、どうしても獲りたいタイトルだった。ひとつの大きな夢がかなった」と語っている。しかし同時に「これからが、もっと大切」とも‥。宮澤が抱き続けるさらに大きな夢『ツール・ド・フランス』。「すっげ?!俺もこんな選手になりたい!」と目を輝かせた中学生は、今「日本人のチームでツールの舞台に立ちたい!」という、より具体的な目標にむかって挑戦を続けている。遥かなるシャンゼリゼへむかって、ペダルを踏み続けている。