PROFILE

宮 澤 崇 史
Miyazawa Takashi

 

元自転車プロロードレーサー

1978年、長野県に生まれる。3歳から自転車に親しみ、勉強そっちのけで野山を駆け回る子ども時代を過ごす。 中学生の時にテレビで観た「ツール・ド・フランス」に感動し、プロの自転車選手を目指す。父親を早くに亡くし、女手一つで生活を支える母親の応援を受けて自転車競技に打ち込み、高校生の時にシクロクロスの世界選手権に出場。高校卒業後は渡欧してイタリアのチームに所属し、ロードレーサーとしての道を歩み始める。23歳の時、母の命を救うためアスリートには致命的と言われる生体移植で肝臓の半分を提供。そのため体力低下で成績振るわず、戦力外通告によりチームを解雇される。単身でフランスに渡り、アマチュアチームから再スタートしてプロに復帰。アジアチャンピオン、北京オリンピック代表を経て、32歳の時に日本チャンピオンのタイトルを獲得。 34歳で世界最高カテゴリーのプロチーム「サクソバンク」に所属。在籍中にリーダージャージ(個人総合時間賞)・ポイントジャージ(スプリントポイント賞)に日本人選手として初めて袖を通した。18年間の海外レース活動を経て、2014年に36歳で引退。現在リオモ・ベルマーレ レーシングチーム監督。
レース解説、選手育成、自転車イベントの出演など自転車競技の発展に努める一方、生体肝移植後プロ復帰に成功した世界で唯一のアスリートとしての経験を生かし、教育や医療分野での講演会、チャリティー活動を多数行なっている。

Current activities

 セミナー・講演

自転車競技者向けの講座・セミナー ヨーロッパでの選手生活/海外のレース/トレーニング理論/生体肝移植からの復帰/オリンピック出場

学校・病院・企業・教育関係者・医療関係者向けの講演・市民講座 夢に挑戦すること/失敗を恐れないこと/世界の扉を開けること/生体肝移植からの復帰とそのトレーニング方法/オリンピック選手を生んだ親子関係/子どもの才能を伸ばす親/スポーツ選手の強靭な肉体と精神がもたらすPDCA・チームワーク・他者貢献

アスリート(ジュニア・シニア・女性を含む)のための専門的実践講座 ライド講座/スクール開催/アスリートの食講座/健康&ダイエット講座/身体メンテナンス/セルフマッサージ/トレーニング理論/体幹トレーニング

 イベント・メディア出演  各メディア、各種イベント(ショップ・メーカー含)、出演、地域貢献事業などのお手伝いをします。

 アドバイザリー業務受嘱  選手経験に基づき、各種メーカー商品開発・PRをお手伝いします。

 マネジメント業務    選手育成、レ-シングアドバイザー・コーチング・イベント等への選手派遣業務。

 パーソナルレッスン    ホビーライダーの方々に元トッププロのテクニックやトレーニング方法、体のメンテナンスなど総合的に伝授致します。

主な戦歴

2006~07
ツールドおきなわ
大会史上初の2年連続優勝

2007
アジア選手権優勝
アジアチャンピオン

2008
北京オリンピック出場

2008~09
ツールド北海道大会
史上初2年連続総合優勝

2010
全日本選手権大会優勝
全日本チャンピオン

2010
アジアオリンピック出場
銀メダル

優勝回数 19回

日本代表選出

世界選手権 5回
オリンピック 1回
アジアオリンピック 2回

Career

1996 長野工業高校卒
1996 アコム ラバネロ
1997 イタリア:FOR 3
1998 イタリア:MOBILILISONE MAPEI
2001 日本鋪道レーシングチーム
2002 フランス:VC BEAUVAIS
2003 フランス:ブリヂストンアンカー
2004 個人でフランスにて活動
2005 フランス:ブリヂストンアンカー
2006 Team Vang
2007 NIPPOコーポレーション 梅丹本舗 E'quipe Asada
2008 梅丹本舗 GDR E'quipe Asada
2009 梅丹本舗 GDR E'quipe Asada
2010 Team NIPPO
2011 Farnese Vini - Neri Sottori(ファルネーゼヴィーニ・ネーリソットーリ)
2012 Team Saxo Bank(チームサクソバンク)
2013 Team Saxo-Tinkoff(チームサクソ・ティンコフ)
2014 Team Vini Fantini - NIPPO - De Rosa

All results

History of 
"Bravo Takashi!"

 

「俺のやることって、これだ」

テレビに映し出された「ツール・ド・フランス」の光景を初めて目にした中学生の宮澤崇史は、そのとき雷に打たれたように画面に釘付けになった。
そして即座にこう叫んだ:

「決めた。俺、プロの自転車選手になる」

笑って取り合わないのが一般的な親だけれど、崇史の母親は違った。
近くで行われる自転車レースを探し出し、次には職場の同僚に頼み込んで新品のスポーツバイクを貸してもらい、崇史に差し出した。

崇史は目の前に突然現れた本格仕様の自転車に息を飲み、すぐに跨ってペダルを踏み出した。

遥かなるシャンゼリゼへの一歩を、崇史はこの時踏み出したのだ。
その道はツール・ド・フランスのステージのように険しく厳しいものだったが、その時の崇史には知る由もなかった。

サバンナを駆け巡る豹の如く、自転車レースの世界を駆け巡ってきた宮澤崇史が初めて自転車に出会ったのは、三歳の時。
安全のためについている補助輪を、崇史は自分を束縛する足枷のように感じた。
補助輪がなかったら、もっと自由にどこでも行けるのに。
自由になりたい。
かくして三歳児が自ら補助輪を外し、その日のうちに補助輪なしで乗り回せるようになった。
自由を手に入れると、翼が生えたかのように自転車を駆って野山をどこまでも駆け巡り始めた。
そうして手がつけられないほどの野生児に成長した崇史は、小学校に上がっても教室でじっとおとなしく座っていることはなかった。勉強は全くしなかった。
小学5年生の時にクラスの父兄から「崇史君、最近は机の上を走り回らなくなったのね」と言われても、崇史の母は動じることはなかった。

子どもの「夢中になる気持ち」を尊重し、のびのびと育てる。それが母の方針だった。

崇史の人並み外れた運動神経を、母はいつも手放しで褒めてくれた。

そしてツール・ド・フランスの壮大な光景が、崇史の未来を決定づけたのだった。

高校に進学して本格的に競技を始めるも、崇史は幼い頃に父親を亡くし、宮澤家は母が女手一つで家計を支えていたため、その生活は苦しかった。それでも崇史の母はなんとか資金を調達して車中泊をしながら崇史を国内のレースに出場させ続け、甲斐あって17歳の時にはシクロクロス世界選手権へ出場する。

高校卒業後はロードレースの本場イタリアに渡り、日本とは比較にならない世界のレベルを初めて知ることになる。最初はトレーニングすらついていくことができなかった。圧倒的に強いチームメイト達。自分にできることは何かを必死に探した。たとえ完走できなかったとしても、先頭集団に居続けて位置取りをすること。必死にそれを続けているうちに、やがてエースやチームメイトから「ブラボータカシ!今のはよかったよ」「今日のタカシは良い働きをした、ブラボーだった」と褒められるようになる。

Bravo Takashi!

よし、これを何度も聞くために俺は頑張る。

この時の経験が崇史のレーサーとしての才能を一気に開花させ、日本に戻ってレースに出てみるといつの間にか誰よりも強くなっていたことに気がついた。

18歳でワールドカップ・チューリッヒ選手権15位、19歳でツール・ド・おきなわ市民 200キロレースで優勝。20歳の時には全日本実業団いわき大会優勝。全日本選手権[U-23]4位、世界選手権日本代表など、プロ選手になるべく輝かしい実績を次々と重ねていった。

前途洋々のそんな頃、崇史の競技生活を経済的にも精神的にも支えていた母が病に倒れる。母の命を救う方法はただ一つ、肝移植だけだった。
崇史は躊躇うことなく自分の肝臓を提供を申し出た。
しかし母は断固拒否。
医師から「手術をしたらプロとしての復帰は保証できない」と告げられていたからだ。
自分の命をたかだか数年伸ばすためだけに、息子の輝く未来を台無しにすることなどできない。
あれほど応援してきた母としての、当然の思いだった。
それでも崇史は母を説得した。
「俺が自転車に乗るのはお母さんの喜ぶ顔が見たいからなんだ。お母さんが死んじゃったら自転車を続ける意味なんかないよ。だから、俺のためにこの肝臓を受け取って。手術を受けて。」

母は息子の願いを聞き入れるしかなかった。
崇史はアスリートとしての自分の未来よりも、母の命の方が大事に決まっていた。後のインタヴューでも「僕たち家族はこれまで支え合って生きてきました。だから当然のことです。」と語っている。

しかし、術後4ヶ月は安静状態。その後は体力も感覚も戻らず、全身の筋肉は緩み、特に体幹を支える腹筋を失って自転車に全く乗れなくなっていた自分に愕然とした。
それからは一日三時間の腹筋運動、自転車で毎日100km走るという凄まじいトレーニングを開始した。

回復後、フランスのチームを経てブリヂストンアンカーに加入。
しかし手術のハンディもあり成績はふるわず、2年後には戦力外通告を受け解雇となる。
そもそも加入時から「現状では採用は難しい」と何度も断られたのを「どうしてもヨーロッパで走りたい」と懇願し続けたのだった。
「自分は他の選手とは違う、絶対に強くなる選手です」という手紙を浅田顥監督に送リ、ようやく採用されたという経緯があった。
浅田監督の「ヨーロッパで結果を出してこい」という言葉に奮起し、26歳、再びアマチュア選手としてフランスに単身で渡る。

どん底に突き落とされ、打ちのめされた状態でもがき苦しんだ時代だった。
体が壊れるほど練習して絶望して泣いたこともあった。

しかし人間、どん底まで落ちたからこそ這い上がるハングリー精神が生まれてくるものだ。
ある時を境に崇史は這い上がりを見せ始める。
エリート3クラスのレースで勝利。国内でも国民体育大会で優勝し、翌年ブリヂストンアンカーに復帰。その後も数々の実績を重ねていく。

29歳、ツール・ド・フランスの常連チームも参加するスペインの1カテゴリーレース、シルクイト・デ・ゲッチョで2位という結果を出し、世界で戦える日本人のパイオニアへと成長。
国内最高峰レースであるツアー・オブ・ジャパンの第1ステージで日本人初の優勝、アジア選手権でも優勝しアジアチャンピオンに輝く。
またツール・ド・おきなわでも大会史上初となる二連覇を達成するなど、日本を代表する選手へと階段を上りつめていく。

そんな崇史を海外のチームは見逃さなかった。2009年、イタリアのプロコンチネンタルチーム、AMICACHIPS-KNAUFへの移籍を決める。
この移籍先でトラブルに見舞われる。契約の不備や給料の未払い、挙句はチームが活動を停止するという事態でレースをまったく走ることができなかったのだ。イタリアという国へのこだわりを移籍時のプレスリリースで「初めてロードレースを学んだイタリアのプロチームからのオファーは、プロとして常に上を目指していたいという自分の願いにかなうものです。実力ある選手が揃い、ジロ・デ・イタリア出場の可能性もあるチームで、チームメイトに認められる走りをし、結果を出すためにも挑戦していきます」と述べていた崇史にとって、競技以前の問題で走れない状況は忸怩たる思いだった。
しかしそんな逆境の中でも懸命に努力を重ね、全日本選手権で2位。ツール・ド・北海道では個人総合優勝。これは大会初の二連覇達成という快挙でもあった。

2010年チームNIPPOに移籍し、その走りに更なる磨きがかかる。
ツール・ド・台湾でのステージ優勝を皮切りに、アジア選手権では2位。
そして6月の全日本選手権では悲願の優勝を飾り、全日本チャンピオンに輝く。

移植手術から9年、肝移植手術を受けたことが正しかったと証明するため必ず日本一になってみせると母に誓ったその約束をようやく果たすことができたのだった。
長い年月を闘い抜いてきたのは崇史だけではない。母もまた、選手生命を賭けた息子の献身的な行為に報いるために、受け取った命を必死に生き抜いてきた。
その意味において、崇史にとってレースとは文字通り命を賭けた闘いだった。

 全日本チャンピオンジャージを身に纏った崇史はブエルタ・ア・レオン(スペイン)でステージ優勝、熊本国際ロード優勝、アジア競技大会男子ロードレースでは日本代表として銀メダルを獲得と、無敵の強さを誇った。
名実ともに日本のトップロードレーサーとなった崇史は、2011年からイタリアのプロコンチネンタルチーム、ファルネーゼヴィニ・ネーリ・Mチポッリーニ』に移籍。 再び勝負の舞台をヨーロッパに移す。

全日本選手権の後、崇史は「自転車選手として走ってきた中で、どうしても獲りたいタイトルだった。ひとつの大きな夢が叶った」と語っている。しかし同時に「そしてこれからが、もっと大切」とも言った。自分はツール・ド・フランスに憧れて自転車選手になった。その原点を忘れたくない。それは世界のトップカテゴリーで走ること。

崇史はその夢を現実のものにし、世界の扉を開く。

2012年、ワールドチーム「サクソバンク」と契約。

プロコンチネンタルとは何もかも規模が違うトップカテゴリーの名門チームで2年間、崇史は幸福と挫折を味わった。トップ選手達を相手にどうしても勝てない。どうしても彼らには届かない。首脳陣を納得させる成績を残せず、2014年にチームを去る。

本来の姿であるスプリンターとしての崇史を存分に走らせたい、という大門監督の思いに応えるべくNIPPO VINIFANTINIに移籍するが、崇史は自分の届かなさを確信することになる。

同2014年10月、ジャパンカップを最後に引退。

「宮澤選手というと、自分で道を切り拓いてきたというイメージが強いですが…」

「もちろん僕らが切り拓いてきた部分もあるのですが、もっとずっと以前からヨーロッパに来ていた選手達がいて、その人達がいたから僕はヨーロッパに来ることができた。僕がやってきたことは、その人達の上に何かをほんの少しだけ築いただけのこと。そこにまた若い選手たちが何かを築き上げていってくれれればいいんです」

崇史の手に届かなかった夢は、そのような時間の流れの中でいつか誰かが必ず実現させることになるだろう。

勝利は、チームメイト全員のものであるのだから。